七月七日は七夕の節句。願い事をしたためた短冊を笹の葉に吊し、星に願いを届ける節句です。その起源は中国の「星合伝説」。牽牛と織女二つの星が天の川を越えて年に一度の逢瀬が叶う日。その夜、人々は機織り上手な織女にあやかって機織りや裁縫、歌や音楽など諸々の技芸上達を祈るのです。「巧みなることを星に乞う」ことから「乞巧奠」と呼ばれる星祭りが日本に伝わったのは奈良時代。以来、詩歌管弦の上達を祈って雅な宴を催す朝廷行事となり、室町期には歌、蹴鞠、碁、花、貝合、揚弓、香の七つの競技を行う「七夕法要」という風雅な遊びへと発展していったのです。
とはいえ、こちらは貴族の七夕。かねがね私は「七夕」をなぜ「タナバタ」と読むのか不思議でなりませんでした。それを解決してくれたのが日本古来の「棚機(たなばた)」の祖霊供養の行事。池や川などの水辺の機屋で棚機津女(たなばたつめ)と呼ばれる乙女が先祖の霊のために機を織るという盆行事の一つで、この時、笹竹を御霊の依代としたのだそうです。この棚機と中国の七夕(しちせき)の行事が習合したのがこんにちの七夕(たなばた)の節句。ちなみに、中国の七夕も日本の盆行事も初秋の行事で、夏のお祭りではありません。
そんなお話を詳しくお聞かせいただいたのが七月十六日に永々棟で開かれた「乞巧奠」の講演でした。講師はもちろん、朝廷行事としての「乞巧奠」を守り続ける冷泉家当代の貴実子さま。藤原俊成・定家以来の和歌の家元・冷泉家当主夫人です。月の満ち欠けから旧暦と新暦の季節感の違いをイントロに、七夕が初秋の祭りであることを説いてくださいました。旧暦七月七日は立秋の候で、月はほぼ半月。その月を船と見立てて織女に逢いに漕ぎ出す牽牛。あるいは鵲(かささぎ)が羽を伸ばして天の川の橋となり、牽牛の川渡りを助けるというお話に、星合いの夜空の情景に想いを馳せ、季節とともに暮らしてきた先人たちの繊細な感性に感動したことでした。
それよりもなお、私が感じ入ったのは冷泉貴実子さまご自身の人となり。新聞の一面で貴実子さまの実母、冷泉布美子さまの訃報に接したのは七月十三日の朝でした。本葬は十九日とのことでしたので、十六日の永々棟での講義は時雨亭文庫のどなたか別の講師を差し向けられるものと思い、念のため貴実子さまにお電話すると「お約束ですから参りますよ」と淡々としたお返事。当日の講義もいつもと変わらず、分かりやすくユーモアのあるお話ぶりで、あとのご挨拶で「母が何よりも大切に思っておりました乞巧奠のお話をさせていただくのですから母も〈行ってらっしゃい〉と言っておりますでしょう」と。
ご講義をされた貴実子さまはむろんのこと、それを聴くお客さまたちもまた、ひとしお勝る感動や感慨を覚えられたに違いありません。
この講義から和歌に象徴される日本人の美しい感性や美意識、見識を再認しただけでなく、悲しみを押し殺して平常心で臨まれた貴実子さまの姿に、潔くも美しい日本人の精神の高邁さを見たことでした。